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⑥ヨガの恩恵~「わたし」とともにあること

これまでの連載で具体的なヨガの有用性をお話してきました。
がん、あるいはその他の病気や不調にかかった時に、「ヨガが良いよ!」とすすめてくれるお友達や先生がいたとしても、それが「なぜ良いのか」「ほかのスポーツやエクササイズとは何が違うのか」の具体的な解説を聞く場面はなかなか少ないからです。
逆に、エビデンスと言われるような「◯人のがん患者さんに呼吸法をしてもらった結果の数や数値」などといった、数字で示すことのできる研究をすすめてくださっている人や医療機関もありますが、数字では表せないけれどもなぜか有用に表れてしまうしまうその「なぜ」を、ヨガの哲学ベースでお話できるのは、医療従事者でもがん患者さんでもなく“ヨガ教師”の仕事だと考えています。
「体をととのえること」「心をととのえるということ」と続いてきましたが、
コラムの最初のほうでも触れた、アートマやプルシャなどとも表現される「わたしそのもの」「魂」「本質的な存在」というものがわたしたち自身のなかに存在している、というヨガの考え方も、ヨガが他のスポーツやエクササイズとは異なる有用性のひとつです。
アートマやプルシャ、魂については「ととのえかた」というよりも、「それが在ると認識すること」がポイントになります。
自分自身のなかにそういう、不滅である普遍であるものが存在しているということ。
それを知っていれば、「なにが起きても自分は無くなることはない。だから大丈夫」と感じることができます。
自分なりの死生観
そもそも、ヨガの思想のベースとなっているインド哲学では「サンサーラ(輪廻)」という考えが根付いています。
ひとは何度でも生まれ変わっていく、という考え方です。
今こうして生を受けているわたしたちですが、こうして生まれる前にもどこかで人生をやっていて前世で亡くなって、またこの世に生まれてきている。また今生で亡くなっても、また来世で生まれてくる、という考え方です。
このときに、肉体はなくなってゆくけれど、肉体を衣替えしても変わらずに存在し続けているのが、アートマやプルシャ、魂などと表現される「本質的な普遍のわたし」です。
この説が本当かどうかは、残念ながらわたしにはわかりません。
なぜなら、わたしには前世の記憶がないからです。
まれに前世の記憶を持ち合わせている、という人に出会うこともありますが、わたし自身ははっきりとした記憶はありません。ですが、わたしはこの説を信じています。
サンサーラ(輪廻)という説を信じるも信じないも、それは個人の好みなのでどちらでも良いのですが、大切なのは「生きること」や「死ぬこと」「生というもの」について考える機会を持っておくことです。
やはり「がん」と聞くとどうしても、死や命に関わること、という連想に直結してしまいがちです。
それゆえに告知を受けたとき、誰かががんにかかったと聞いたときなどには、大きなショックと恐怖に襲われます。